【愛知県豊橋市】 織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らの書状など5点の旧蔵資料を本物と確認

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織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らによる書状5点について本物と確認

豊橋市図書館は、江戸時代末期に町人らが設立した私設文庫「羽田八幡宮文庫」の旧蔵資料(羽田八幡宮所蔵)である、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らによる書状5点について本物と確認されたことを発表しました。

羽田八幡宮文庫について

羽田八幡宮文庫は、嘉永元(1848)年に、神主の羽田野敬雄や町人らによって設立された私設文庫。書籍の閲覧だけではなく、無料で貸し出しも行っており、近代的図書館の先駆けとなる文庫として知られています。

羽田八幡宮文庫と豊橋市図書館

文庫は明治40(1907)年頃に閉鎖され蔵書は売却されますが、明治44(1911)年頃に神主の大木聟治が私財を投じて買い戻し、約10,000冊のうち約9,200冊を回収。その後、大正2(1913)年1月に、これらの蔵書を買い取って開館したのが豊橋市図書館です。

旧蔵資料一覧

右大将頼朝卿之書翰 「足利義詮書状」(仁木義長宛)

室町幕府の2代将軍、足利義詮が仁木義長(推定)に宛てた書状。長谷城が陥落したことを祝う内容が記されています。

足利義詮書状
足利義詮書状

翻刻:「長谷城没落事、/殊目出候、此間心苦/思遣候、委細代官申/候也、毎時又々可令/申候也、謹言/五月廿七日 (花押)/右京大夫殿」
内容:長谷城が没落したとのこと、おめでとうございます。このところ、心苦しく思っていました。詳しいことは代官が伝えます。
備考:頼朝とあるが、足利義詮の書状が正しい。花押が一致。

織田右大臣信長公御書翰「大和筒井順慶宛朱印状」

織田信長が大和郡山城主の筒井順慶に出した朱印状。天正5年9月、松永久秀・久通親子が石山本願寺攻めから離脱し、反旗を翻して籠城した際に「明智光秀を丹波に派遣するよう申し付けた。大坂城への通路の警備や夜の待ち伏せなどに油断しないよう」と指令したもの。

大和筒井順慶宛朱印状
大和筒井順慶宛朱印状

翻刻:「惟任日向守用所/申付、自余へ差遣候、/一途之間、森河内/城其方自身相/越、用心等堅固令/覚悟、大坂へ通路/并夜待以下事、/聊不可有由断候也/十月廿日 (朱印)/筒井順慶」。
内容:信長が、大和郡山城主の筒井順慶に出した朱印状。天正5年9月、松永久秀・久通親子が石山本願寺攻めから離脱し、信長に反旗を翻して信貴山城に籠城した。このため、筒井順慶に「明智光秀を丹波に派遣するよう申し付けた。筒井順慶は森河内城に勤番し、大坂 への通路の警備や夜の待ち伏せなどに油断しないよう」と指令したものである。
評価:石山本願寺攻めの時の家臣の反乱に対する信長からの指令書で、日本史に残る出来事に直結した内容であり、評価される。
備考:天下布武朱印一致。冒頭に惟任(これとう)日向守(明智光秀)の名前があり、注目される。この5年後に本能寺の変で信長は光秀に殺された。研究書掲載。

豊臣太閤秀吉公御下知書「羽柴備前宰相他宛覚」

豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に、宇喜多秀家、細川忠興、長谷川秀一に宛てた覚書。「明まで攻めに行くことになるので、道や橋などを整備しておくように」「高麗(漢城)から明までの間の城は先に行った者たちが造ったので、海を渡ったら城の番をするように」などと詳細に指示しています。

羽柴備前宰相他覚書
羽柴備前宰相他覚書

翻刻:「覚/一手前請取代官所之内ニ御座所於有之者、其代官留主申付、其郡之物成納可入置事、一法度以下事、其請取之代官所之内、手前々堅申付、百姓以下可召直事、一扶持方之事、手前代官所之内を以可下行、遠路相越候間、下々中食是又可遣事、[付代官不仕衆にも、其手寄/\兵粮可相渡候事]、一順風可然時分、可被成御渡海之旨、各御訴訟申上候間、先々御代官所被相極、当所務事被仰付候、菟角ニ大明国之儀被仰付候ハて不叶候間、成其意、物成入念納置、国々法度并御座所・路地・橋等普請迄、無由断可申付事、一此度之船にて可被成御渡海与被思召候処、上様先へ被成御越候へハ、跡ニ有之者とも迷惑之由申、又御人数被遣候へハ、往来経数日候、当月早手風、来月浪高、八月ハ風時候間、来年三月迄渡海被成御延候様にと、先々よりも申越候由、江戸大納言・加賀宰相、其外只今罷越候者ともゝ、達而無用之由御理申上候付而、来年三月迄被相延候事、一高麗都より大明国境迄つなきの城々普請、為先衆申付、其代官/\として在番仕候事、一其地罷越物主とも、つかい女持可申候、自然不持者於有之者、可為曲言候、則女之扶持方可被下由、被仰付候事、/以上/天正廿年六月二日 (朱印)/羽柴備前宰相とのへ/羽柴丹後少将とのへ/羽柴東郷侍従とのへ」。
内容:豊臣秀吉が羽柴備前宰相(宇喜多秀家)、羽柴丹後少将(細川忠興)、羽柴東郷侍従(長谷川秀一)ら3名にあてた覚(7か条)。
一、預かった代官所は留守になるので、留守番に納めるものはきちんと納めさせるように。
一、法度など、百姓以下にも守らせること。
一、遠路はるばる代官所に来たら食事をとらせるように。代官に仕えていない人にも食事を与えるように。
一、風向きが良くなったら、海を渡って朝鮮へ行くように。明まで攻めに行くことになるので、御座所や道や橋などをつくって整備しておくように。
一、この度の船で上様(秀吉)が渡ろうと思ったが、上様が先に行くと後に行くものが迷惑だというので延ばしていたら、今月は早手風、来月も浪高し、8月は風があるので、来年3月までは延ばすことを先に行った者にも伝えた。徳川家康、前田利家、そのほかの九州にいるものたちも3月まで延ばすことになった。
一、高麗(漢城)から明までの間の城々は、先に行った者たちが造ったので、海を渡ったら そこの城の番をするように。
一、連れて行った召使の女にも、きちんと給料をあたえるように。
評価:秀吉の朝鮮出兵のことが書かれている。宇喜多秀家や細川忠興ら戦国大名に宛てた覚えであり、明を攻めに行くための状況が読み取れる資料として評価される。
備考:江戸大納言は徳川家康、加賀宰相は前田利家、高麗都は漢城のこと。発給文書の朱印を黒く塗りつぶす例はほとんどない。研究書掲載。

徳川家康書翰「上杉景勝(推定)宛書状」

徳川家康が中納言(上杉景勝と推測)へ送った手紙。「鴨鷹が欲しいと聞いたので、すぐに持って行きます」という内容が記されています。

上杉景勝(推定)宛書状
上杉景勝(推定)宛書状

翻刻:「鴨鷹御用之由、/内々承及候之/間、即二もとすへ/させ令進覧候、/猶明春早々罷上/可申進候間、不能審候、/恐々謹言/十二月廿三日 家康(花押)/中納言殿」
内容:家康が中納言へ送った手紙「鴨鷹がほしいと聞いたので、すぐに2つを持って行っ てご覧いただきます。来年の春にあなたの所へ行ってお話しします。」
備考:宛所の中納言は上杉景勝と推測されている。研究書掲載。

徳川光圀書翰

津田木工権頭からの手紙と求肥飴に対する礼状。「寒いけれど、元気そうで何より」と書かれています。

徳川光圀書翰

翻刻:「為厳旨飛骨、/殊ニ求肥飴一箱/拝受、忝仕合奉存候、/雖成寒節候、/其御所益御 安泰被成/御座之旨、畏悦之至奉存候、/此趣宜預演言、光圀/恐々謹言、/ 十二月廿一日 水 戸宰相光圀(花押)/津田木工権頭殿」
内容:津田木工権頭からもらった手紙と求肥飴に対するお礼状。寒いけれど元気そうでな によりですと書かれている。

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